メラニー・クライン(1882-1960)

児童分析を専門とするオーストリアの女性分析家です。
精神分析の創始者フロイト,S.のアイデアを重視しつつ、中心概念である「エディプス・コンプレックス」をそれより発達早期に見出したことで、当時に不可能とされていた、より重篤なクライエントへの分析の可能性を開きました。

苦難のなかで生まれた理論
クライン,M.はオーストリアの家庭で4人きょうだいの1人として生まれました。
父親は博識であり、医師でしたが、職業的には成功していませんでした。父とは20歳程年下であった母親の事業のため、クラインは唯一、乳母に育てられています。
4歳頃、クラインはよく慕い、可愛がってくれていた姉を亡くします。また、20歳頃には兄を亡くすなど、近しいものとの別れや喪失を繰り返して大人になっていきました。

その後、医学部進学を断念して、結婚。出産し、母となりますが、うつ病になってしまいます。
精神分析家フェレンツィ,S.に初めて分析を受け、フロイトの著作に触れ、分析家の道を志すようになります。一方、プライベートでは夫との別居などを経て、しだいに離婚へと動き始めていきます。

フェレンツィとの精神分析に不十分さを感じ始めたクラインはベルリンでアブラハム,K.に師事します。アブラハムからは子どもの分析を勧められ、理論が洗練されていく契機となりました。しかし、アブラハムは1年程で死去し、良き庇護者であった彼との関係は途絶えてしまいます。

そんな折、ジョーンズ,E.が行く当てをなくしていたクラインに声をかけます。医師でもなく、大学教育も充分に受けていないと認識されていたクラインの臨床力の高さに興味を持ち、イギリスへと招かれていきました。ロンドンの土壌で分析家としての活動に精力的に専念し、しだいにクライン派というグループを作り上げていきます。

クラインは弟子達に対しても徹底した態度を貫きましたが、フロイト,A.ら自我心理学からのバッシング、何人もの弟子や同僚が自分のもとを去るなど、絶えず対立や離別の渦巻くなかに身を置いていました。

また、透徹した分析力をもちながらも、息子ハンスが事故で命を落とし、精神分析家となった娘メリッタがアンナ・フロイト側に立って非難を浴びせるなど、喪失・悲しみとも共に後年を過ごしたようです。

クラインによる重要概念

早期エディプス・コンプレックス 3歳頃から始まるとフロイトが考えた「エディプス・コンプレックス」をより原始的段階とし、生後1年目の離乳時期からあるものと考えた。
原始的防衛機制心のなかで対象を“良い乳房”と“悪い乳房”に分裂させる「スプリッティング」、全てを良いものとして捉える「原始的理想化」、それらを「取り入れ」するための「投影同一視」など。また、喪失感や不安を否認する「躁的防衛」などがある。
対象関係論 3,4ヶ月頃までとされる「妄想分裂ポジション」では良いものは自分の内側に、悪いものは外側へと投影されるなど、両者は分離されている。
「抑うつポジション」を行き来するようになると両者は統合されていき、悲哀や抑うつ感が生じてくる。

アンナ・クライン論争
先述のように、クラインはフロイトの娘であるアンナ・フロイトと激しい論争を繰り広げます。
子どもにも自由連想法を適用して発達早期の幻想を取り扱ったクラインに対し、未熟な自我へのサポートを重視したアンナ・フロイト・・・両者の子どもに対するスタンスは異なっていました。

早期エディプスへの見解、児童分析への親同席の必要性など、いくつもの見解の違いがありましたが、紳士淑女協定が結ばれ、事態は一応は収束していきます。

そして、幸か不幸か、この論争を通して精神分析の理論が整備され、他の学派へも影響を与えていきました。