ハインツ・コフート(1913-1981)

オーストリアの精神科医・精神分析家であり、自己心理学の創始者です。従来は未熟な段階のものと位置づけられていた「自己愛」の健全な働きに注目したほか、共感を重視し、「自己対象」といった考え方をもとにそれにまつわる種々の転移を整理しています。彼の研究は「自己愛性パーソナリティ障害」の実践に先駆的な役割を果たしました。

生い立ち
1913年5月3日、オーストリア首都ウィーンに音楽家の父フェリックス、母エルゼのもとに長男として生まれます。当時としては裕福な家庭環境でしたが、父は第一次世界大戦に出征し、1歳から5歳の間は母と2人暮らし。一種の英才教育を授かるものの、母はややヒステリック、情緒不安定な面があったといわれています。 

1932年、19歳でウィーン大学医学部に入学、25歳で学位をとります。その後、1937年から1938年のうちにアイヒホルン,A.に精神分析を受けました。しかし、1939年3月、強まりをみせるナチス・ドイツのユダヤ人迫害により、イギリスに亡命します。
1940年、第二次世界大戦の影響により、亡命先のイギリスの戦況も悪化。アメリカのシカゴ大学音楽学部にいた友人ジークムント・レバリーのつてにより、シカゴに移り住みました。
シカゴ大学医学部の精神神経科で神経学を専攻しつつ、アイヒホルンの被分析者であったアイスラー,K.に指導を受けます。
1946年、精神分析家の養成機関であるシカゴ精神分析研究所に入局。研修時はアイスラーの妻ルースのアナリザンドともなり、自我心理学を支流とした夫妻の影響を受けています。1950年、精神分析家の資格を得たのち、教育スタッフの職責を果たすようになりました。

(私生活では1948年、ソーシャル・ワーカーの女性と結婚。のちに長男が誕生しています)

自己心理学の立ち上げ、既存理論との軋轢
コフートはシカゴ精神分析研究所と生涯関係を持ち続け、当初は正統派の理論に忠実な分析家でした。しかし、これまでの創始者達がそうしてきたように、従来の理論をもととした実践を経ながら、成熟につれて独自の道を切り開くようになります。

1960年代には自我心理学派の第一人者ハルトマン,H.と通ずる機会を得て、当時の最大権威の一人であるフロイト,A.とも交流。彼女に敬意を抱きつつ、父フロイト,S.の精神分析を背負う気概をもちました。
1963年には研究所の所長に任命され、翌年にはアメリカ精神分析学会の会長を務めます。しかし、1968年に国際精神分析協会の会長選挙に向けて準備を進めていたものの、落選がおおよその見通しとなり、翌年にアンナの説得もあって立候補を断念します。
さらに1970年のシカゴ精神分析研究所の所長選挙にも敗れ、この頃より自己心理学につながる独自の構想を打ち出し、同年に自己研究会を立ち上げました。

1968年に発表した論文『自己愛性パーソナリティー障害の精神分析的治療』は自己心理学の先駆け的なものとして位置づけられています。それらの論考は1971年に『自己の分析』として出版されます。しかし、当時は欲動論や自我心理学の流れから逸脱したことによって異端視されました。加えて、同年に悪性リンパ腫を発症し、彼にとって苦難の年となりました。

1977年、既成の理論との違いをはっきりと示した『自己の修復』を発表。これまでの理論に固執する分析家と軋轢が生じ、アンナやアイスラー夫妻とも距離を置かれるようになります。一方、翌年にシカゴで「自己心理学年次総会」を開くなど、新しい学派としての基盤を着実に固めていきました。

晩年は病によって満身創痍の身となり、1981年10月8日に末期がんのため、移住地シカゴで亡くなっています。

人物像
1979年に発表された論文『Z氏の2つの分析』はコフートの自己分析とみられ、家族も認めています。

そういった個人内外の出来事を含めてコフートの人生をみると、戦時中の厳しい時代を経て、精神分析の傾注、既存の理論に対する軋轢、自己心理学の確立・・・とある種のヒロイックな展開を経ています。

「パーソナリティ障害」は医学診断においてはのちに統合的な流れを辿っていきますが、彼の行った自己愛の研究・実践はその後も多くの臨床のなかで活かされています。