現代では「自閉症」(自閉症スペクトラム障害)は発達障害のなかで主要なものとされています。こだわりの強さや社会的コミュニケーションの苦手さ、ときに特異ともとれる特性も持つ当障害は医学的な見地・視座を得るまで、戦時下の世界情勢の影響を受けつつ、研究者らの臨床例の積み重ねのなかで概念化されました。
オーストリアのアスペルガー,H.は「アスペルガー症候群」、のちに「自閉症スペクトラム障害」へ包括される自閉的な特徴を持つ子どもの症例を発表した人物です。アメリカの精神科医カナー,L.と並び、世界で初めて、ほぼ同時期に別々の国で自閉症を提示した人物として掲げられますが、当時はアスペルガーの発表は十分に認知されておらず、類縁のものとも捉えられていませんでした。
戦時下の研究、その影響
幼少期のアスペルガーは才能豊かな面を持つ一方、彼がのちに研究することとなる子ども達のように「友達のできにくい」「どこが変わった子ども」だったといわれています。
1931年、25歳で医学部を卒業。1932年にはウィーン大学小児クリニックの治療教育部門で働くようになります。一方、当機関は「ナチ党(NSDAP)」の思想が強まり、反ユダヤ政策の色彩が色濃くなっていきます。
1935年、アスペルガーは“ユダヤ人ではない”ことから、他にキャリアや実績のあるユダヤ人医師達がいるなかで責任者となります。
1938年、ナチス・ドイツがオーストリアを併合。1939年にはポーランド侵攻し、第2次世界大戦が勃発します。これらの出来事はオーストリア精神医学の理念にも大きな影響を与え、多くの医師がウィーンで迫害を受けました。アスペルガーは自閉的特徴を持つ子どものことを前駆的に取り上げた『精神的異常児』(1938)を発表していますが、あまり注目されませんでした。
(一方、前年の1937年に当機関に所属していたフランクル,G.がカナーの援助でアメリカへ亡命します。ドイツ語圏ヨーロッパは精神分析が発展しており、それに付随して、自閉症に関する知見もこのときカナーへと伝わったといわれています)
その後、ナチスの指示によって子どもを含む精神障害者の安楽死が計画されます。オーストリアの医師であったアスペルガーは仕事を続けるため、多くの主要組織へ参加せざるを得なかったといわれています。
このときのアスペルガーの立場や心情へはいくつかの見解があります。「子どもの引き渡しを拒んだ彼を当時、ウィーン大学教授であったハンバーガー,F.が守った」という話や「“Little professor”という名称を含めて、子ども達がナチスへ評価される論文を書いた」という見識もある一方、彼が児童養護施設へ送った子どもの多くが殺害された記録も残っています。(このことから、のちに「アスペルガー症候群」の呼称を否定する動きも出てきています)
1943年、カナーが『情緒的交流の自閉的障害』を発表。11症例を報告したこの論文は「聡明な容姿」「常同行動」「優れた記憶力」「機械操作の愛好」などの特徴を掲げており、自閉症研究の出発点となっていきます。
1944年、アスペルガーは『幼児期の自閉的精神病質』を発表します。一方で軍医として戦地へ派遣され、壮絶な経験とともに捕虜となったのち、ウィーンへ帰還しています。戦時下ドイツで研究がなされており、のちにウィング,L.によって再評価されるまでは世界的には目に留まることはありませんでした。
「自閉症」のその後ースペクトラム概念による包括
ドイツ敗戦後、アスペルガーはウィーン大学や当大学の小児クリニック、インスブルック大学などを歴任し、医師の職務や講演に携わりました。
1980年、74歳で亡くなる数日前まで講義を行っていたといわれています。
1981年、ウィングが『アスペルガー症候群:臨床報告』で上述のように彼の発表へあらためて注目します。実娘も障害があった彼女は「アスペルガー症候群」を論じました。
そして1994年、当症状はDSM4(「精神疾患の診断と統計マニュアル 第4版」)に正式に記載されます。
時を経た2013年。ウィングの活動が大きく影響し、DSM5へ「自閉症スペクトラム障害」という包括的な概念が記載されます。
古典な自閉症ともいわれる「カナー型」、知能や言語発達に遅れのみられない「アスペルガー症候群」は上記症状へと統合、記述されていきました。