統合失調症は精神医学の主要な対象疾患の1つであり、幻覚や妄想、自我障害などが主症状となる病気です。
精神疾患としての治療や地域社会でのサポートが整えられてきていますが、今のような支援がなされるよりもずっと昔から、当症状を思わせる記録が残されています。
それらを目にすると、この疾患がいかに時代の変遷のなかで誤解と偏見を経ながら現治療に至ったかをみてとることができます。
古代
古代文化のなかでは医学的知識は「神々から与えられるもの」と考えられていました。そして、医学と魔術とは必然的に深く重なり合わさって執り行われてきています。
もっとも古い文献のなかでは、エジプトのパピルス文書に薬の処方とともに神々の名を含めた魔術の呪文が記されています。そして、そのなかには統合失調症を思わせる病態と治療の記載もありました。
記載によると、病を負った者は夜を神殿の聖所で明かし、神官へその夜の夢を伝えていました。夢は神官に読み解かれ、治療を定めるものとして扱われたようです。(「夢は神から送られるもの」と考えられていましたが、その治療的意義という点では夢分析の原点的な取り組みともいえます)
聖職者イムホテプはこういった治療に際し、祈りを捧げるほか、呪的な効果をもつとされるハーブを取り入れ、超越的な力をより高めようと努力したそうです。
2世紀頃のギリシャでは医学の基本は「体液説」でした。体内の4つの体液バランスの乱れが病因とされるこの説は現代では受け入れにくいものといえます。しかし、生理的な変化や異常と心の病気を結びつけてみていこうとする視点は今の医療と通じるところもありました。
ただ、ギリシャ悲劇に精神疾患が「神への不敬による罰」と描かれたり、世間的には「悪霊が取り憑いている」という考えが信じられていたり・・・ということの方が日常的でした。
中世
中世でも宗教的な世界観が世の中の大部分を占めていました。「悪霊や精霊のしわざ」という非合理な信念が主流であり、精神病が医療の対象となることが難しい実情があったようです。
ローマ帝国滅亡によって高められた科学性が衰えたこともあり、エクソシストが悪霊を追い払おうとしたり、魔女裁判にかけられて処刑されたりするなどの不幸な史実も残されています。
近代〜現代まで
それまでの迷信的な考えは衰退し、合理的な思想が主流となっていきます。イギリスで産業革命がなされた頃には社会の変化に適応できず、公的秩序から外されてしまう人々が多くみられるようになりました。統合失調症を患う人もそのなかに含まれており、収容のための施設が次々に作られていきます。
そのような背景のなか、18世紀末になり、フランスの精神科医ピネル,F.が閉鎖病棟の開放化を進め、「精神病患者を鎖から解き放った初めての医者」として知られる功績を残します。19世紀以降になると精神医学の発展とともに現代に通ずる理論や治療法が科学性をもったものとして築き上げられていきました。
しかし、20世紀に入ってから世界大戦が勃発。戦争のさなか、精神障害や知的障害をもつ人々はナチス・ドイツなどにより迫害されました。
1948年、大戦が終わったのちに世界精神保健連盟が設立されます。精神衛生の向上を目指して、精神保健に関する専門家や利用者、家族など様々な人達が集い、協同する組織が形成されました。
また、1952年に「クロルプロマジン」という薬の抗精神病作用が発見されます。このことが以降の薬の開発につながっていったことは精神科医療において大きなタームとなりました。
イギリス、イタリアはじめ世界的に「脱施設化」の声があがりはじめます。公立の精神病院を廃止し、地域のケアセンターなどでの受け入れが目指されていきました。
日本では1950年、戦後に欧米から精神衛生の考えが取り入れられ、「精神衛生法」が制定されます。精神病院への入院が法的に定められ、それまで行われていた患者の家族が自宅牢へと入れておく「私宅監置」が禁止されます。
その後、精神科医療の不十分さがたびたび指摘されつつ、この法律は改めて見直され、「精神保健法」やそれを大幅に改正した「精神保健福祉法」などが制定されていくこととなりました。
統合失調症とこれから
現代において、統合失調症の治療は薬物療法の進歩、地域社会でのサポート体制の充実化が進められ、自身の特徴を生かした社会生活が少しずつですが、送りやすくなってきています。
また、長期入院をなるべく減らし、地域での活動・リハビリテーションが推進されるなか、家族会をはじめとした家族へのサポートも取り組まれてきています。