オーストリア出身の精神科医・精神分析家であり、自己心理学の提唱者です。自己愛性パーソナリティ障害の研究・実践に先駆的な役割を果たしました。
生い立ち
1913年5月3日、オーストリア首都ウィーンにユダヤ人音楽家の父フェリックス(復員後、製紙業者に転身)とエルゼ・ランプルの長男として生まれます。当時の時代としては裕福といえる家庭環境でしたが、父は第一次世界大戦に従軍しており、1歳から5歳までは母と2人暮らし。母はややヒステリック、情緒不安定な面があったといわれています。
1932年、ハインツは19歳でウィーン大学医学部に入学、25歳で学位をとります。また、1937年から1938年のうちにアイヒホルン,A.に精神分析家を受けました。しかし、1939年3月、強まりをみせるナチス・ドイツによるユダヤ人迫害から逃れるべくイギリスに亡命します。
1940年、第二次世界大戦が勃発すると、亡命先のイギリスの戦況も悪化。シカゴ大学音楽学部にいた友人ジークムント・レバリーのつてにより、アメリカのシカゴに移り住みました。
シカゴ大学医学部の精神神経科で神経学を専攻しつつ、アイヒホルンに分析を受けたアイスラー,K.に指導を受けます。
1944年には助教授に昇進。1946年、精神分析家の養成機関であるシカゴ精神分析研究所に入所。1950年、精神分析家の資格を得たのち、同所で教育的な役割を果たすようになります。
(私生活では1948年、ソーシャル・ワーカーのエリザベス・マイアーズと結婚し、1951年に長男を授かっています)
自己心理学の立ち上げ、既存との軋轢
1960年代には自我心理学派の大御所ハルトマン,H.に目をかけられ、彼を通じて精神分析界の総帥的な立場にあったフロイト,A.とも交流。フロイト,S.の精神分析を背負うことへの使命感とともに娘である彼女に経緯を抱きます。
1963年には同研究所の所長に任命され、翌1964年にはアメリカ精神分析学会の会長を務めます。しかし、1968年からは国際精神分析協会の会長選挙に向けて準備を進めていたものの、落選が濃厚となったため、翌年、アンナの説得もあって立候補を断念しています。
1970年に行われたシカゴ精神分析研究所の所長選挙にも敗れ、この頃からのちの自己心理学に関する独自の構想を打ち出し始め、1970年には自己研究会を立ち上げました。
自己心理学の理論的な先駆けとなったのが、1968年に発表された論文『自己愛性パーソナリティー障害の精神分析的治療』であり、一連の論文は1971年に『自己の分析』として書籍化されます。しかし、当時は欲動心理学や自我心理学の理論から逸脱する問題作と位置付けられてもいました。加えて、同年に悪性リンパ腫を発症し、彼にとって不遇の年でした。
1977年、欲動心理学や自我心理学との差異を明確に打ち出した意欲作『自己の修復』を発表。その内容が従来の理論に固執する精神分析家たちの反発を買い、アンナやアイスラ―夫妻とも疎遠になります。一方、翌年にシカゴで第1回自己心理学年次総会(のちの自己心理学年次国際総会)を開くなど新しい学派としての基盤を着実に固めていきました。
晩年は生命保険の加入許可が下りないほどの満身創痍の身となり、1981年10月8日に末期がんのため、移住地シカゴで亡くなります。
人物像
1979年に発表された論文『Z氏の2つの分析』はコフートの自己分析であると見る向きが強く、家族も認めています。それらを含めてコフートの人生をみると、せんじちゅの厳しい時代を経て、精神分析への傾注、既存の理論に対する軋轢、自己心理学の確立・・・とある種のヒロイックな展開を経ています。
パーソナリティ障害は医学診断においてはのちに統合的な流れを辿っていきますが、彼の行った自己愛の研究・実践はその後も多くの臨床のなかで活かされています。
