ピアジェ理論と精神分析学

ピアジェ,J.はフロイト,S.らと並んで20世紀における心理学者のなかで重要視される人物です。「発達心理学の父」と称されるピアジェですが、精神分析との関係も一時期ありました。

ピアジェ理論について
出生〜7歳頃までの教育環境で子どもの発達上の基本的な人格が築かれていく、という観点からも幼児教育の重要性への認識を深めました。
現場主義者ともいえるその理論の多くは観察をもとに構成されています。たくさんの子ども(ときに自分の子どもを含めて)を観察するなかで「子どもは独自の考え方をする」という観点から大人の見方の枠組みを当てはめることの誤りを指摘しました。

生い立ち
1896年、スイスのヌーシャテルにて中世文献学の教授である父、信仰心にあつい母との間でピアジェは生まれ育ちました。父親は歴史学に精通し、ピアジェは父を尊敬していたといわれています。また、母親は信仰熱心な人でしたが、一方で神経症的な面もあったそうです。
プロテスタンティズムの雰囲気のなかで育った彼は早熟でもあり、生物学に早くから興味を示し、特に軟体動物に興味がありました。1907年、10歳で白スズメについての観察を論文にまとめ、『ヌーシャテル博物学雑誌』に発表しています。
10〜14歳をヌーシャテル自然史博物館長のゴデ,P.の援助のもとで自然史研究に専念。10代はじめは哲学へ興味がありましたが、1915年に神経衰弱で悩み、保養が必要となりました。しかし、18歳までに学士、21歳までに博士論文を完成させています。

精神分析との関係
生物学の研究をしたピアジェですが、その後は心理学の研究に取り組むようになります。大学卒業後、精神分析が発展するなかでブロイラー,E.の講義をチューリッヒで聴講します。1919〜1921年はパリでビネー,A.とシモン,T.の実験室で知能検査を用いた研究助手となりますが、その間の1920年にはスイスの精神分析協会に加入しています。
1921年、25歳でジュネーブのルソー研究所に赴任。フロイトの弟子であり、ユング,C.G.とそれまでに重要な関係にあったシュピールライン,S.と講義を通して出会っています。(また、ここでの講義は自閉的思考を取り扱った内容も含まれており、「早発性痴呆」を提唱し、その特徴の1つに「自閉(Autismus)」を指摘したブロイラーの影響が感じとれます)

一方、1925〜1931年の間には3人の子どもが誕生しています。1926年には初期著作の『子どもの世界観』のなかで「自己中心性」の概念を提示。その考え方を自閉的・象徴的な思考と論理的思考との中間のようなものと位置づけています。ピアジェは前述のシュピールラインに8ヶ月程の教育分析を受けており、子どもの思考と言語発達に関心のあった彼女とは学術的にも影響しあったようです。
その後、ピアジェは精神分析にはそれ以上は深入りせずに独自の研究を発展させますが、その学説や観点へはむしろ肯定的な評価をしていたようです。
このように他の学問の領域に触れつつ、ピアジェの発達心理学は構成されていきました。

その後
1929年にはジュネーブ大学の教授となります。1936年の『知能の誕生』は中期の代表的著作であり、3人の自分の子どもを観察し、知性の芽生えとともに自身の基本的立場を示しています。
戦後はユネスコの委員長、そのメンバーを数年勤めており、ジュネーブ大学で研究歴の多くを過ごし、ジュネーブで亡くなりました。

ピアジェの提唱した乳幼児期からの基本的な発達概念

①シェマの獲得認識のための枠組み
保育者が子どもへ3つリンゴを並べ、「リンゴだよ」と教える。
子どもは3つのリンゴの共通点に気づき“リンゴ”を認識する。
②同化経験にもとづいて自分の見方の枠組みに合わせていくこと
今度はミカンを置くと、子どもは「リンゴ」と言う。
(すでに獲得した見方の枠組みに合わせて取り込もうとする)
③調節獲得したシェマに新たな変化・見方を加えること
しかし、保育者が「それはミカンだよ」と言う。子どもはやりとりを通し、新たに“ミカン”の特徴に気づいてく。
④均衡化同化と調節のバランスを繰り返し、シェマを獲得する過程のこと
このように同類のものを見方の枠組みへ取り込んだり、新たな視点からその枠組みを変化させたりすることを繰り返していく。