アンナ・フロイト(1895-1982)

自我心理学の礎をハルトマン,H.とともに築いたほか、フロイト,Sの末娘であり、父の防衛機制を整理したことでも知られています。
また、精神分析を進めるうえで当時は「自由連想ができない」とされていた子どもに対し、精神分析的発達心理学にもとづく児童分析の創始や治療同盟を確立するうえでの遊びの導入、子どもにとっての環境要因となる保護者の役割を重視するなかで親面接を取り入れるなどの先駆的な活動も行いました。

生い立ち
1895年、6人きょうだいの末っ子としてアンナは生まれました。父フロイトは当時39歳、開業医をしており、フリース,W.との間で自己分析の真っただ中でした。8年間で6人目の子どもであったアンナは忙しい母親よりも叔母ミーナにかわいがられていたようです。当時、フロイトは彼女を分析家にしようとは思っていませんでした。一般進学コースのギムナジウムではなく、自由学校のようなところに入り、成績は良かったのですが、学校は好きではなかったようです。

精神分析との出会い、児童分析への取り組み
アンナは17歳で小学校教員の資格をとり、1914年に教員となります。その後、父親から5年間の分析を2度に分けて受けることになりますが、1920年には健康上の理由で静養を要し、教職を離れています。
第一次世界大戦後、1920年代はアンナにとっても様々な変化がありました。はじめの分析終了後の1923年頃から児童分析に取り組むようになりますが、当時の風潮から医師ではない彼女に対する反応の冷たさに苦労することもあったようです。
また、父の癌が見つかり、以降はそのサポートをしつつ、1925年にはウィーン精神分析協会の委員会に加わって訓練分析家を務めることになります。いわゆる第一世代・第二世代間との関係性も気にかけつつ、アンナは精神分析界において様々な功績を収めていきました。一方、児童の精神分析に対する彼女の理論がその輪郭を明確に帯びていくにつれ、一回り近く年上であったクライン,M.からの批判がイギリスを中心に沸き起こるようにもなりました。

後年の活動、その人物像
1938年、父とともにナチスを逃れてイギリスへ渡ったアンナは大戦中に保育所、戦後はクリニックを開き、児童治療や児童治療者の訓練に尽力します。1939年に父が亡くなりますが、『自我と防衛』(1936)を彼の誕生日に寄贈するなど最期まで慕っていました。
また、アンナは大変美人だったらしく、父を取り巻くサークルの若者たちから求婚されることもありましたが、退け続けたそうです。(彼女の対人関係を巡ってはレズビアンとの憶測もありましたが、本人は否定しています)
1982年に没するまで、精神分析の世界において精力的に身を捧げつつ、アンナは生涯独身を通しました。

技法や特徴
アンナの自我心理学は自我に支持的に関わり、育み強化することを臨床上も大切にしています。
また、児童の治療に際して親面接を導入したことはその後の子どもの治療へ引き継がれていきます。
同じく子どもの分析治療を行ったクラインとは違い、遊びを自由連想的には考えず、主にラポールを形成するためのものとし、やや教育的介入も当初は行っていたようです。